『いろはに』




ねえちゃん、なにしてるの」


縁側のすみで帳面を広げ習ったばかりの文字に苦戦しているところへ賽天太がものめずらしげにやってきた。
わたしはこの子に「おねえちゃん」と呼ばれるのがとても好きだ。
もういちど呼んでくれれば良いのにとちらりと見上げたきり考え込むふりをしていると案の定もう一度声をかけてきた。

「おねえちゃん、何を書いているの」

きっとこのまま黙っていたなら我慢強く答えを待ち続けるのだろう。
ここでかんしゃくを起こさないのが楽天丸との大きな違いだわ、などと思いつつ今度はちゃんと答えてやる。

「字。」

答えてから説明が足り無すぎたかと付け加える。

「“いろはうた”をさらっていたのよ。」

言って賽天太の顔色をうかがうとどうやら感心しているようだ。
もしかするとこの子達はまだ文字なぞ習ったことはないのかもしれない。
隠れ里の数人は巻物などすらすらと読んでいたので、
文字、それもかな文字なんて皆がもう読めるのかと引け目を感じていたのだが。

「知ってる?いろは」

ひかえめにそう尋ねると、賽天太は帳面を拾い上げ中をものめずらしげに見て少し困ったようにほんわりと微笑んだ。
本当に珍しいのかの書いた紙とお手本をなおもまじまじと見比べている。

「………教えて、あげようか」

ためらいながらそう口に出してみると、不思議そうな表情をうかべてこちらを見たがすぐに笑顔を浮かべてうなずいた。

「いい、いろはうたは全部で四十七文字あって同じ文字は使わないのよ。
 えっと、全文はここに書いてあるよ。……いろ、は、にほへど、ちり、ぬる、を、とりあえずここまでね。」

実を言うと、つい先日極楽の爺さまに教えてもらったばかりで全文となるとまだ心もとないのだ。
それでも、自分の指の動きを賽天太が視線で追う様が嬉しく、
いろは歌くらいなんでもないのだという顔で姉さんぶってみせる。

「ね、簡単でしょ。じゃあ、まずはこの字を書いてみて。」

一文字を指し示し、筆をとらせた。

相手が賽天太だからだろうか。教えてみればそれは非常に楽しかった。

懸命に筆を運ぶ横顔も
思ったような字が書けなかったのか途方にくれた顔をするのも
あきちゃったからもうやめようかな、などとからかうと困ったようなとまどった表情をうかべるのも

すべてが愛らしく思えては夢中で賽天太に教えた。

手を添えて一緒に字をなぞったり、笑顔が見たくて大げさなまでにほめてみたり。
これはむしろままごと遊びに近いな、
そう思いながらも一つ書き終わっては顔を見合し微笑む瞬間が嬉しくて結局いままで極楽の爺さまに習ったこと全てをおさらいしてしまった。

「さっきから、何やってんだか」

いっぱいに書き散らした紙をひろげて二人で笑っていると
一体いつから見ていたのか楽天丸があきれ顔で後ろから覗き込んできた。

「見ての通り、字の練習。あんたもやりたいって言うなら仲間に入れてあげても良いわよ。」

姉さんぶると怒り出すかな、ちらりと思ったが楽天丸はただいつもの人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべただけだった。

「なに、字なんか知らなくてもいいとか思ってるんなら……」

文字を知っていればどれほど生活に役に立つだろうか。
とうとうと語るつもりで勢い込んで口を開くと楽天丸は精一杯哀れみを込めたどこか勝ち誇ったまなざしで言った。

「馬鹿だな、おまえ。おれたちゃとうの昔にそんな字ジジイに習ったっての。」

思わず賽天太を振り返ると、書き散らした文字を指でなぞる彼は顔をあげ、
目が合った瞬間いつもの笑顔でほんわりと笑った。



あとがき

こんな賽天太は嫌だ!⇒本当は黒い賽天太

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